場所の概念

毎週火曜は外部から呼ばれた作家の話を伺っている。今日は自分のユニットの板屋先生の話。彼は古代ローマにおける伝統的建築の骨格(archi-type)を援用し、場所と時間に根ざした場を構成することを目指しているのが特徴的。また、たまたま資料を貰った入江先生による建築における内外の関係についての考察も併せて自分の中でリンクすることがあり、非常に興味深いのでちょっとメモ。


建築とは、人間によって<具体的に生きられ体験される空間>である。人間が存在して初めて意味を持つ空間、人間とともにあってこそ存在する主体的な空間である。その本質は”空間”にこそあって、形態はそれ自体が造形の目的なのではなく、空間構成の一手段でしかない。(――前川道郎)


このような視点で建築を捉え直すと、建築は”場所を築くこと”と言い換えることが出来る。場所という概念は、M.ハイデガーによって実存的空間概念を「空間」と「性格」に分け、各々に「定位(orientation)」と「同一化(identification)」を照応するという形で定義されているが、それはすなわち対象を見ている自らの座標を同定することが出来、相対的な中心と軸がなければ、場所を認識することはできないという風に捉えることもできる。
しかしながら、中心性や軸性というものは扱うのが難しく、近年の建築・都市分野で一般的に行われる”設計”において、製図板の上でしか描かれることのない幾何学性の議論に終始しているのが現状であるともいえる。周辺の街並みに壁面線を合わせる作業ひとつとっても、なぜそれが必要で、その場所にしか有り得ないと言えるのか、自信が無い。


一方で、『建築芸術とは”目標”と”進路”という2つの契機を媒介とする空間形成である』(――Dagobert Frey)とされているが、これもある意味で軸性という側面が示されている。そこには、建築の各部分が継時的に観照される点が特性の一つとして挙げられるが、これには私が見る立場と観られる立場が関係付けられることによって、そこに場所が生成されるのではないか。外から内への移行、内から外への移行によって、それが強く意識されるのだとするならば、そこで初めて軸性というものに”気づく”のであって、初めからその存在を把握しているとは言えないかもしれない。


エルトリア・ローマ、古典期・ギリシャを経て近代主義建築の均質空間(成立しているかはわからないが、、)という流れの中で、中心性や軸性という議論は多くなされてきた。それは、あくまで場所の概念から人間による”生きられる空間”を構造化するために用いる手段であって、その意味を履き違えてはならない。