農山村はどうあるべきか

現在卒論あるいは課外活動であぁでもないこうでもないと考えていること。
農山村はどうあるべきか、どうしていきたいのか、、というとても難しい問題。特に、自分にとっては客観的にみることほど難しいことは無い。
何とかしなきゃ!と思う自分と、一方で冷静にみている自分。そして、自分は将来どういうかたちで社会に貢献していくのか。
自分は、ピースも集まりきってないのに、無理にくっつけようとしているのだろうか…?


でも、今までで色々と感覚的に思ったことはいくつかある。
以前友人と納涼祭りだといって借りてきて見た映画に、「ヴィレッジ」というのがあって。

ヴィレッジ [DVD]

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内容としては、ぜんっぜんホラーでもなんでもないんだけど、そこで描かれている”村”の世界というのは、現実に存在している可能性は否定できない…。
―――村人たちは恐ろしい現実社会を捨て、森の奥深くに自分たちだけの理想郷をつくり、慎ましく生きている。そして、絶対に破ってはならない掟の一つに、「森に入ってはならない」というのがある。
要は、色々ルールをつくって俗世間から切り離すことで、幸せな世界に暮らしていると思いこもうとしているわけだ。(真実を知るのは長老たち)
現代の生活に暮らすことと、自分たちなりの信条に基づいて最低限度の生活をすること、どちらがいいかなんて言えないけれど、そんなのは当事者が変わることで容易にエゴに変わってしまう。(長老たちがいいと思った生活も、子どもにとってはどうかはわからない…!)


あるいは、いま読んでいる本の中に、「建築の終わり」というのがある。

建築の終わり―70年代に建築を始めた3人の建築談義

建築の終わり―70年代に建築を始めた3人の建築談義

自分の不勉強で読んでもなんだかよくわからなかった、というのが正直なところなんだけど、この本の中で、「意気地なしの風景」という言葉が出てくる。
これは、例えば自分の家のベランダから周りを見渡してみると、ゴチャゴチャした家が所狭しと並んでいて(遠くに富士山が霞んでみえたりも)、いかにも東京、といった感じの風景が目に入る…。
これを、団塊の世代の筆者は「意気地なし」と呼んでいるのだが、時代の要請と、その時代に生きる人たちの価値観によって現出したものがそういった風景である可能性は否定できないし、むしろ、この風景に関して肯定的に捉えている人もいるかもしれない。
人々の考えていることとか思っていることはなかなか形にはならないけど、それを形として具現化できるのが建築なのかな、と読んでいて思う。
だとすると、余計に怖いのは、形そのものから感じられるイメージが、人それぞれ異なるのは当然だけれど、その裏にあるメッセージが読み取れなくなることって、あると思う。それって、本当に怖い。少なくとも建てたら残るわけだから。


と、だいぶ脱線してしまったけれど、自分としては、何かがつながってる気がする。
当事者がまさに感じていることは、彼らが経験してきたものごとに基づいているわけで、それらに関わる時間や機会、実際に接しているかどうかによって、視点は変わってくるのではないか?考えてみれば、至極当然のことだけれど。
そこらへんから、次のステップを見出したい。


キーは、結局自分は農山村をどういう視点で見たいのか、ということ。
それが定まって初めて、ようやく文章が書けるんじゃないかとうっすら思う。



うん、いい感じに焦ってきたぞ。
雲、晴れるかな。