分からず屋の賛歌

刺激は刺激を呼ぶものだ。
そう、いわば、静かな水面に一石を投じるような。


今日は、とても楽しい一日だった。
インターンの事務局メンバーと、建築の観点から、土木の観点から今後の業界の展望についてを語ったし(随分と大げさだが)、来る09年の手帳を買い、卒論に悩み、卒論の相談とは言いつつも半分以上は人生相談をして、極めつけはパブでより深い話。
とりとめも無い一日かもしれない。
だけど、いつ何が人生の岐路となるかわからないし、それに今、気づくことはない。
ただ、常に後悔をしない過ごし方をしたい。それは、常々思うこと。時々、脱線することもあるけれど。(いや、むしろ多々。)


人の考えに共鳴できるというのは実に素晴らしいことだけれど、なかなか難しいことでもある。
普段から自分は随分とひねくれた考えの持ち主で、他人がああ言えばこう言う、ああすればこうするってことをずっとやってきた。
なんか人と違うことをしたい、とかそのくらいの浅はかな理由で。
何を言われても、どんなにきついことを言われても、そんなことお構いなし。心のどこかでは、「うーん、そうなんだろうか」ともう一人の自分がウダウダ考えている。
そんなだから、コイツは何も分かってない、とよく言われる。損もたくさんしただろうし、でも得もたくさんしただろう、と思う。
そして、何でもかんでも流れに逆らって歯止めをかけようとする。「本当にそれでいいのか?」「なぜそうなのか?」なぜ?なぜ?と、なんだか癖になってしまった。
だからといって、様々な事柄に対して、自分としての判断を下すことができているわけでもなく。
自分の拠り所ってなに?こだわりって、なに?といっても、なんだかよくわからない。
自分のものさしは結局、いつまでたっても完成することはないんだと思う。だけど、完成することがないからこそ、自分はあえて外れた見方をしたい。常に疑問を持つ姿勢でいたい。
そこは、これからも変えることができない気がする。
ただ、一人の人間として、社会人として、最低限のレベルは全うするべきだ、とは思うが……。それは大いなる反省点。
それにしても、今日は凄く共鳴した日だった。
自分の失敗を後進に伝えられるということは、それだけの強さがあるということであり、失敗を糧にして乗り越えた、と言えると思う。


と、普段から随分とわけわかんないことをずらずらと書いてきたが、ぜひ続けていきたい。
書きたいときに、書けるだけ書く。内容は、周りの人がわかんなくっても、いい。
何かを書く(パソコンで打ち込む)ということは、今まで自分のなかにあったものを客観的にみるための、積極的な創造行為だと思う。
あとで読んでみてわからなくても、いい。今の自分から自然に出てきた言葉は、素直に残しておきたい。


そんなことを思った一日だった。