建築言語の意識化について

建築言語の共同体を意識化するということは、ほとんどが、いや、全て経験知によるものなのかもしれない。
その場所の佇まいや匂い、温度・湿度など、自らの目で観察し五感で得た感覚を建築に対する知恵として変容していく過程は、恐らく自分自身の身体を通じて経験することでしか体得することはできないのであろう。
しかしながら、一人の人間として着眼点や空間を読み解いていく力量が無ければ、建築言語として意識化する機会は失われたままであるはずだ。
例えば、コルビュジェの卓越している風に見える創造力、言わばcreativityというものは、実は理知的かつ幾何学的として捉えるところにその本質は無く、外部から与えられる所与の条件から想起されるvocabularyの生成やそれらの組み合わせ、あるいは統合体の中にしか見出すことができないのではないだろうか。
そのvocabularyを、ただ道具として活用するのみにおいては、そこに建築の発明はなく、諸条件から生み出される(受胎される)統一体の重層や、あるいはその調和によって、初めてその建築の価値が語られるような気がしてならない。


旅行すべし、とはよく言ったもの。
自らの物差しを形成し、着眼点を磨くことによって過去を紐解くひとつひとつの作業が血となり肉となる。
結果、”発見”が生まれるのだろう。