破格の値段で。

Bibliotheque Nationale De France 1989-1995

Bibliotheque Nationale De France 1989-1995

St. Petri: Klippan 1962-66 (O'neil Ford Monograph)

St. Petri: Klippan 1962-66 (O'neil Ford Monograph)

http://www.natsume-books.com/img_item/77596.jpg高松伸 建築展 図録


最近手に入れたもの。
2つはオークションで破格の値段で入手。ありがたや。
dominique perraultのなかではフランス国立図書館が一番好きかなぁ。Lewerentzもそうだけど、その土地の風土とか記憶をちゃんと読み取っていると感じられるところが好感持てる。これは持っておいて損はないと思う。

極上の時間

昨日は元々予約をしていた張本人が来られなくなったので、急遽同期を連れてキチムへ。
その前に画像処理を延々こなした挙句、国土地理院とレモン画翠を歩きでハシゴしてから向かったのだけど、すでにその時点で疲れ果ててしまった。
が、この日の主役、太陽バンドと原田郁子、それに永積さんが途中参加したことで、すこぶるご機嫌な音楽に酔いしれることができた。
色々事情が重なり、12月始めまで何一つうまくいってなかったのが、このちっさなライヴでどんなに救われたことか。
少しずつ気持ちも上向きに、しっかりとした足あとを残すためにも、前を向いていこう。

建築言語の意識化について

建築言語の共同体を意識化するということは、ほとんどが、いや、全て経験知によるものなのかもしれない。
その場所の佇まいや匂い、温度・湿度など、自らの目で観察し五感で得た感覚を建築に対する知恵として変容していく過程は、恐らく自分自身の身体を通じて経験することでしか体得することはできないのであろう。
しかしながら、一人の人間として着眼点や空間を読み解いていく力量が無ければ、建築言語として意識化する機会は失われたままであるはずだ。
例えば、コルビュジェの卓越している風に見える創造力、言わばcreativityというものは、実は理知的かつ幾何学的として捉えるところにその本質は無く、外部から与えられる所与の条件から想起されるvocabularyの生成やそれらの組み合わせ、あるいは統合体の中にしか見出すことができないのではないだろうか。
そのvocabularyを、ただ道具として活用するのみにおいては、そこに建築の発明はなく、諸条件から生み出される(受胎される)統一体の重層や、あるいはその調和によって、初めてその建築の価値が語られるような気がしてならない。


旅行すべし、とはよく言ったもの。
自らの物差しを形成し、着眼点を磨くことによって過去を紐解くひとつひとつの作業が血となり肉となる。
結果、”発見”が生まれるのだろう。

he is a gentleman.


藝大にて槇さん講演会。色々思うところあったのでメモ。
彼の話を聴くのは去年のメタボリズム展以来か。相変わらず元気溌溂で、てっきり座って喋っているのかと思ったら最後まで立って話をしていた。その姿はこれからの世界を背負って立たねばならない学生に向けて、培ってきた経験に基づく言葉の数々を余すところ無く伝えようという気迫へと転化したせいか、心の奥底まですっと伝わってきた。


彼の代表作でもあるヒルサイドテラスについて、何故あのような計画になったのか自身の口から話を聴いたことは無かったので、意外と新鮮だった。例えば、デザインモティーフとしてギリシャの群島Hydraから着想を得て部分の集合から成る全体を考慮する、つまり集落への回帰とでもいうべきものや、時代ごとに反映されていく、時の重層性を受け入れるということなど。コミュニティの問題は時期の変化によってそのあり方も変容していくだろう。
なかでも特に面白かったのが、言語と建築には通底しあう要素があるということ。一定の領域において限られるlocal languageから思考を共有するintellectual languageへの言語の変遷と、建築におけるvernacular architectureからstylistic architectureへの変遷には、同様に進歩させ洗練していく流れの緊密な関係性が存在する。これは権威・権力が根付いたことにより、templeやchurch、mosque、town hall、libraryなどの共通言語へと領域を押し拡げているようにも思える。
時代の潮流は明らかに、反歴史・地域主義や抽象・均質主義、技術至上の全盛へと着実に変化を遂げている。このように全ての価値が相対化している中で、建築に何ができるのか、自分に何ができるのか、それを問題であると捉え、建築と切実に向き合うことが必要なのだ、、ということを仰っていたと思う。
胸が痛い。


結局、建築における問題は形態論と空間論の二項対立図式の中に答えが見つかるかもしれないが、見つからないかもしれないということを思う。
人が使って自然かどうか。簡単に言えばそういうところにリアリティが無ければ、建築である意味が無い。そしてそこに将来が隠されているような気がしてならない。